企業理念を掲げ、一つの方向へと向かうことで成果を最大化し、事業の目的を果たす。こうした理想を掲げても、その実践の過程で困難に直面する企業経営者は少なくありません。しかし2012年、小売業界未経験ながら米国大手家電量販チェーン店「ベスト・バイ」の経営者に就任したユベール・ジョリー氏は、パーパスを掲げ、実践することでみごとに業績回復に成功しました。そうした自らの体験を1冊の本にまとめた『THE HEART OF BUSINESS(ハート・オブ・ビジネス)』の日本語版が7月下旬に英治出版より出版されます。本書で解説を執筆したグラムコ取締役社長 矢野陽一朗に、本書が伝えたいメッセージについて尋ねました。
――本題に入る前に、パーパスの定義についてお尋ねします。グラムコはパーパスの概念について日本にいち早く紹介してきましたが、日本でパーパスが広まっている背景について教えてください。
矢野
はい、元々日本企業は家訓や社是社訓を通じて、経営者の理念を従業員に広めることを積極的に行ってきたお国柄と言えると思います。特に、明治時代の渋沢栄一の影響が大きいと思いますが、会社は私利私欲のためではなく、世の中に奉仕するため、国を良くするために存在しなければならないという経営者の道徳観は、欧米の企業と比べてもかなり古くから広く根付いていると思います。本書の解説にも詳しく書きましたが、例えば、1929年に松下電器が「綱領」として記した中には現代のパーパスに通じる内容が既に書かれていました。
その後、1990年代にピーター・ドラッカーがMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)というフレームワークを提唱したことで、永らく日本ではこの体系に沿って理念を掲げることが大流行しました。ところが、この時代に作られたものが形骸化し、ましてやそれを日々実践しているかと言うと、社員一人ひとりにはそのような意識もない。目の前の売上目標やノルマに追われ、何のために仕事をしているのかなんて考える余裕もない人たちが大多数なのではないでしょうか。
――そうした労働意欲の低下はデータにも表れているようですね。
矢野
調査会社のギャラップ社が、世界で従業員エンゲージメントの調査をしていますが、最新の調査でも働きがいを感じている従業員の割合は、先進国の中でも日本が最低レベルで5%くらい。米国が一番高く34%ほど。東アジアでも中国・韓国などは10%を超えていますので、日本の従業員エンゲージメントが最低レベルなのは、「東アジアの文化圏だから」ということでもない。そうした結果が出ています。
――なるほど。日本の経済成長停滞の一因を感じます。先ほど、日本における理念浸透の背景を伺いましたが、パーパス浸透の背景にはこうした労働意欲の低下も関係しそうですね。その他にも要因はあるでしょうか。
矢野
2009年のリーマンショックも大きかったと思います。それまでは株主価値を最大化するのが企業の唯一の目的だという考え方が支配的でしたが、リーマンショックで崩れ、経営者は大いに反省しました。また同時期に、地球環境の問題が本当に深刻になり、利潤を追求して、経済効率性を高めれば高めるほど地球を傷つけてしまい、人が住めない星になってしまうという考え方が浸透してきました。行き過ぎた資本主義への反省、地球環境に対する対応、そういったものも企業に求められるようになりました。
そして若い人たちから地球環境を考慮しない企業活動に対して反発の声が挙がるようになり、企業側も無視できなくなってきました。そうした背景の元、2010年頃から欧米では自分たちの存在の意義を示すためにパーパスの策定が始まり、だんだん浸透するようになってきました。
グラムコでは2016年からパーパスについてセミナー等を通じて色々と紹介してきましたが、昨年11月に日本経済新聞の1面でも「パーパス」が大きく取り上げられて、パーパスに対する関心が高まっていることを感じています。一方でバズワード化し、一過性のブームのようになることを懸念しています。まずこの本を通じて、パーパスの本質が何かということが、多くの方に伝わって欲しいと思っています。
――ありがとうございます。そうしたパーパス浸透の背景を踏まえて、改めて『THE HEART OF BUSINESS(ハート・オブ・ビジネス)』について伺います。日本語版の出版には矢野さんが大きく関わっているそうですね。経緯をお聞かせください。
矢野
今回ユベールさんの原書が出てすぐに翻訳出版の話を英治出版に持ち掛けましたが、元々は10年前、私がグラムコに参画する以前『自己革新』という本の出版でご一緒した縁がきっかけです。ジョン・W・ガードナーが1960年代に書いた『Self-Renewal」という本が大変すばらしいので日本語訳をして紹介したいということで私が企画し、出版させていただきました。
話は逸れますが、この本にパーパスに通じることが書かれていますので、少し続けさせてください。ガードナー氏はもともと心理学者でしたが、ケネディ大統領のスピーチライターを経てリンドン・ジョンソン政権で保健教育福祉長官になり、「偉大な社会」の政策実現に尽力しました。政界を離れた後は非営利組織の支援をしたり、スタンフォード大学の教授になって多くの人材を育成したりしました。1970年代のアメリカにおいて最も影響力のある知識人と言われた人で、非常に多くのリーダーに影響を与えました。この『自己革新』の中に人生の意義というテーマで書かれた一節があります。
おとぎ話の幸福とは、なんの張合いもなく遊び呆けて暮らすことである。真の幸福とは、何かを追い求め、目的意識を持って努力することである。おとぎ話の幸福とは、楽しく無駄な時間を過ごすことである。真の幸福とは、自己の能力と才能を最大限に発揮することである。どちらの幸福も、愛を含んではいるが、おとぎ話の幸福が愛されることに重点を置いているのに対し、真の幸福は愛を与える能力に重点を置いている。
『自己革新[新訳]-成長しつづけるための考え方-』 ジョン・W・ガードナー(著) 矢野陽一朗(翻訳)より一部抜粋
ここで言いたいことは、人は誰もが意味のある人生を送りたいと思っていて、その意味とは、愛されることではなく愛を与えること。つまり誰かの役に立つことが人生の意義であり、それを追求することが人の幸せにつながるということです。
――パーパスが「なぜ?」をくり返し自己に問うことで、本質的な理由を見つけるということに通じるお話ですね。
矢野
ええ。今回ユベールさんの考え方に触れ、最初に本を読んだ時にこのガードナーさんが60年前に考えていたことを、現代において企業活動の中で実践されたお話だと思ったのです。ユベールさんが社員一人ひとりのパーパスと会社のパーパスを一致させることについて繰り返し触れていますが、これが非常に素晴らしいと思ったんですね。つまり、一人ひとりの人間が意義深い人生を追求することを支援するために、会社という組織があり、その会社も組織として一つの大きなパーパスを追求している。
こうした結びつきを作ることで、彼の表現を借りると“ヒューマンマジック”、つまり信じられないような魔法が起こりますよということですが、実際に彼は瀕死のベスト・バイを見事に蘇らせています。
――今お話に出た通り、ベスト・バイはユベールさんが2012年9月にCEOに就任されてからパーパスに伴う「リニュー・ブループラン」によって、店舗閉鎖やリストラをせずに5年後には完全復活。株価も7倍に向上させました。本書の中で特に矢野さんの心に響いた点を教えてください。
矢野
たくさんあるのですが、特に挙げるならある店舗のマネージャーがチームのメンバー一人ひとりに「あなたの夢は何ですか?」と問うシーンでしょうか。その夢をホワイトボードに書き出して、一人ひとりが助け合い、夢を叶えようと言うんですね。例えば、若い女性販売員の夢は実家を出て一人暮らしをすること。だけど今の給料では安いから、自立は中々難しい。そこでマネージャーは彼女がベスト・バイで役割を果たし、昇給するために何が必要かを親身になってサポートしていきます。
そういった個人の夢を会社の中で共有しながら、成功のためにできることを協力していく。そうした人を大切にする活動がベスト・バイ再建の根幹にあり、実践していくといことに感銘を受けました。
――日本では、個人の夢を職場で話すということに恥ずかしさを感じられるかも知れませんが、個人の夢と会社の進むべき道が一致した時に大きな力を発揮するという素敵なエピソードですね。他にはいかがでしょうか。
矢野
全体を通じてユベールさん自身の成長の過程が正直に語られていて、人となりが見えてくる点が面白いですね。学生時代に自分がいかにやる気がないダメな働き手だったかというのを正直に書いていて、そこでのひどい職場体験が、将来自分が経営者になったらこういう風にはしたくないというきっかけになっている。自分の弱い部分もさらけ出しながら、経営者として常に何を大切にすべきか考え続けていて、単なる成功者の体験談ではなく、一人の人間の成長過程を読み取れるというのが面白いと思います。
――今、ユベールさん自身の経営者としての魅力についてお話がありましたが、本書はパーパスを軸にしたリーダー像の話とも言えると思います。この点、これからのリーダーに必要な資質について教えてください。
矢野
日本では戦国武将に例えると織田信長のように、強烈なカリスマ性や意思決定力があって、部下を強引に率いて難局を乗り切っていくリーダーみたいな人がもてはやされるかも知れませんが、リーダーに決まった資質は必要ないということは、研究結果として出ています。リーダーシップ論の権威と言われるウォレン・ベニスが色々なリーダーにリサーチをかけた結果、それぞれ一人ひとりが自分の個性を活かしながら個々のリーダーシップスタイルを確立していることが明らかになりました。
本書の中で、リーダーは弱さを見せても良いとユベールさんは語っています。これは多くの人にとって直感と反する部分かと思いますが、社員との心理的な距離を縮め、一人ひとりとコミュニケーションを取ることはすごく大切なことだと思います。自分らしさを出し、自分の意見はもちろん大事にしつつも傾聴力を持って、時には相談する。人間力と言えばそれまでですが、これからのリーダーには必要な資質ではないでしょうか。
――矢野さんご自身も今年5月にグラムコの社長に就任し、グラムコのリーダーという立場となりましたが、どういったリーダー像を目指されますか。
矢野
そうですね、グラムコはプロフェッショナルサービスを提供している会社ですので、やはりクライアントの課題を解決するために、いかに良いサービスを提供するかが大事ですし、そのために良い組織を作っていきたいと思っています。良い仕事によって世の中に認められて、その実績を評価されて次の仕事を頂いて、そういう仕事をしたいという人が入って来てくれて、という好循環を生み出さないといけないし、そうした組織のリーダーとして皆さんの意識を合わせて行きたいですね。
――確かにグラムコには様々な個性や能力を持った人が在籍していますので、それぞれの持ち味を発揮しながらいい仕事をして行きたいですね。
矢野
はい、自分が実践することで皆さんについてきてもらうのはもちろんですが、私より優れたプランナー、デザイナーがたくさんいますので、そうした皆さんが活躍できる環境を作りたいと思います。
――さて、書籍の話に戻しますが、6月末には書籍の出版を記念して著者が一堂に会するオンラインセミナーが実施されました。当日を振り返って著者のユベールさん、日本語版序文を書かれた前ソニー社長の平井一夫さんにはどのような印象をお持ちになりましたか。
矢野
お二人とも大きな組織のリーダーとして、会社を再建するという難しい仕事をされた方なのに、全く偉ぶることなく非常に親しみを込めて優しく接してくれたことに、大変感銘を受けました。
先ほどの話にもつながりますが、人間味のある温かいお人柄を感じると同時に、お二人共ご自身の信念を強く持っておられる。それを特等席で見ることが出来て、非常に良い機会となりました。
――セミナーの中でお二人がお話になったことで、特に印象に残っていることはありますか。
人が大事ということを、お二人が繰り返し色々な言葉で話されていたことですね。いかにその人が前向きなモチベーションを持って仕事に取り組めるようにするか。そのためにはリーダーが繰り返しパーパスを伝えて行かねばならないし、実際に出来るように手助けをしていかねばならないと、お二人がそれぞれご自身の言葉で伝えてくださいました。この本の帯に「人こそがビジネスの核心」とありますが、本当にその通りですよね。
仕事をする上で人が大切ということは、当たり前すぎて経営者は言わなくなっているように思いますが、出来ていないからこそ日本企業で働く人のモチベーションは低い訳で、そのことは改めて認識するべきだと思います。
――冒頭でお聞きした日本企業は働きがいが低いというお話に通じますね。では最後に、企業がパーパスを実践する上で一番大切なことお聞きして締めくくりたいと思います。
私たちグラムコはクライアントの理念体系の構築をお手伝いしていますが、その際に大事なのはどのようなパーパスを掲げるか、ですよね。そのために様々な角度からリサーチを行い、ワーキングセッションを通じて本質的な言葉を探し当てます。今回この本とセミナーを通じて思ったことは、言葉を決めることはスタートに過ぎない、ということです。
いかにトップの人がきちんと理解し、従業員の皆さんに繰り返し伝え、従業員の皆さんの心に響くようなコミュニケーションを取れるか。そして、個人のパーパスと組織のパーパスを一致させながら、日々モチベーションを高くして仕事をしていけるか。パーパスを浸透させ実践していくことが大切だと改めて思いました。
セミナーの中で平井さんも仰っていましたが、特にトップが決めた言葉に対する責任を持ち、くり返し伝えて行くことが大事です。そうしてこそ、パーパスはその企業の中できっと輝くものになるはずです。
6/29(水)に実施された出版記念オンラインセミナーの詳細は、下記よりご覧頂くことが出来ます。
https://logmi.jp/business/articles/327035
矢野 陽一朗(Yoichiro Yano)
慶應義塾大学経済学部卒。アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)でITコンサルティングに従事したのち、スカイライトコンサルティングの創業メンバーとして12年間にわたり広報・マーケティングを担当、ブランディングを推進。2012年、グラムコの顧問に就任、米シーゲル・ゲールとの提携交渉を支援。アビームコンサルティングを経て、2018年にグラムコに参画。副社長を経て2022年5月取締役社長就任。